推古天皇の28年(621年)、銀山の主峰仙の山山頂、俄に光をはなち、霊妙仏が現れたという伝説がある。人々は恐れおののき、山頂に出来た池を朝日ヶ池と尊称し崇めたといわれる。あるいはこれが『銀が隠されている』という天の啓示、銀山発見の始まりだったのかもしれない。
推古天皇から下ること700年の延慶2年(1309年)、周防の大名大内弘幸が不思議な夢を見る。大内家の守護神、北辰の神が枕元に立ち『石見国仙の山に宝有り、汝銀をとりて外敵を排せよ。』
当時大内弘幸は鎌倉幕府の執権北条貞時と対立、一進一退の攻防を繰り返していた。そんな彼にとってこの夢はまさに百万の味方を得たに等しい。
果たして仙の山は、山肌を白銀に染め、まばゆいばかりの光沢がはるか日本海にまで達していた・・・。現在、これが石見銀山発見の定説となっている。
大内弘幸の夢から217年後の大永6年(1526年)、博多の豪商神谷寿貞は、出雲大社裏の鷺浦銅山を購入すべく船で日本海を北上していた。石見沖に差し掛かった時、寿貞は陸地から発せられる光に目を奪われる。彼はいそぎ上陸、光を目指して山中深く入り込んでゆく。彼を迎えたのは銀塊が山と積まれていた清水寺である。
伝説の銀山発見の知らせは、当時西国一の大名と謳われた大内義興に伝えられた。最初の発見者大内弘幸から数えて8代後のことである。
大内義興は、代々の言い伝えが本当であったことを知り、すかさず大軍を石見に派遣、たちまちのうちに石見銀山を手中に収める。
大内義興は神谷寿貞に銀山開発と経営を依頼、本格的な銀山開発が始まる。
この時から、石見銀山は歴史の表舞台に登場、銀山争奪の戦乱と開発ラッシュ、文字通り栄枯盛衰の歴史ドラマを展開することになる。