山内氏から小笠原、尼子氏から毛利氏 再び尼子、さらに毛利へ。
周防と長門の大名大内義興は、銀山経営の拠点として、現在の温泉津町の山中に矢滝城を築く。しかし3年後の享禄4年(1531年)、矢滝城は現在の川本町は温湯城城主小笠原長隆の奇襲によって落城、石見銀山は石見の小領主小笠原氏の支配下に入る。
小笠原氏は、南北朝の動乱に乗じて勢力を拡げ、仁摩、邑智、安濃(大田)3郡を治める豪族。とは言え、西の大内氏、東の尼子氏に挟まれ、両雄の間で離反を繰り返しながら生き残ってきた小豪族。銀山を支配したのもつかの間、東の尼子氏の圧力に屈し、銀山は事実上尼子氏の手に落ちる。時の当主尼子晴久は石見銀山守りの要として山吹城を造り、銀山防衛と経営を図る。
弘治2年(1556年)毛利の名将吉川元春は山吹城攻略の兵を挙げた。城を守るのは尼子方の武将刺鹿長信。急を聞き援軍を差し向けた尼子晴久だったが時既に遅し。山吹城は毛利方の手によって落城、銀山もまた毛利氏の所有するところとなった。
しかし毛利氏の支配も2年と続かず、永禄元年(1558年)には再び尼子氏に奪還される。この時の戦いは、大田の新原(現在の大田市水上町)に尼子と毛利両軍あわせて2万。激しい戦いの後、毛利軍は総崩れとなり、元就は影武者7騎の犠牲をもって、からくも安芸に生還、捲土重来を期すことになる。
戦いに敗れた元就であったが、得意の諜略によって、尼子方の属将を次々と味方に引き入れ石見を制圧、銀山を手中に収めると同時に温泉津を水軍の拠点として整備、いよいよ尼子との雌雄を決する戦いに挑んでいく。
大敗から10年後の永禄8年(1565年)、毛利3万の大軍が、尼子氏の本拠広瀬の富田城を包囲した。戦うこと1年と7ヶ月、尼子氏はついに城を開城、毛利の軍門に降る。一時は中国地方11ヵ国を制した戦乱の雄尼子一族もここに滅亡。
これ以降、毛利氏は中国地方最大の大名として、慶長5年(1600年)関が原の戦いまで覇を唱えることになる。