大久保長安を銀山奉行に迎えてから後、石見銀山は空前の産出量を記録することになる。毛利支配の頃には年間数百貫程度に過ぎなかった産出量が一躍3〜4千貫に達し、徳川幕府の財政を潤していく。
安原伝兵衛という稀代の山師による釜屋間歩、大久保間歩など巨大鉱脈の開発と灰吹き法という精錬技術の導入によって、石見銀山は未曾有の発展を遂げるのである。
『慶長の頃より寛永年間の大森士家の人数20万人、1日米穀を費やすこと1500石余、車馬の往来昼夜を言はず・・・恐らく今日本内此銀山に勝るまじと申し伝え侍る』。銀山旧記のこの記述は決して大げさではないであろう。
いま一つ、石見銀山繁栄を示す記録がある。銀山の積み出し港として栄えた温泉津町に残る記述である。
毛利氏支配の頃、すでに温泉津は毛利水軍の拠点として、さらには銀の積み出しや石見銀山が消費する生活物資の集積地として需要な港になっていたが、幕府直轄となると、温泉津は海運の拠点としてさらに発展、全国の豪商たちが出店、廻船問屋、酒屋が建ち並び、港にはおびただしい船舶が停留していたと伝えられている。
当時の豪商加賀屋の書付によれば、この町は『2〜3階建ての家が建ち並び、廻船問屋20数軒、酒屋15軒が軒先を競い,湊には千石船がたむろす・・・』 とある。往時の隆盛ぶりがうかがえよう。