天正10年(1582年)本能寺で織田信長が倒れた後、天下を治めた豊臣秀吉は、毛利氏を本領安堵のまま5大老の筆頭として厚遇。石見銀山は毛利氏所有のままであったが、秀吉は毛利氏を通して石見銀山から生産される銀塊や銀貨を大量に蓄え、天下人として位人臣を極めていく。秀吉の朝鮮出兵の費用は、殆どが石見銀で賄われたという。
秀吉没後、天下を手に入れたのは徳川家康。
関が原の戦いに勝利した家康は、間髪を要れず石見銀山周辺8カ村〜石見国の 大家村、三原村、井田村、福光村、波積村、都治村、河上村〜に、家康朱印の禁制を発した。戦いの日から数えてわずか10日後のことである。
1ヵ月後、家康は、大久保長安を石見に派遣、毛利氏から石見国を接収する。
以来、明治維新までの260年間、石見銀山は幕府直轄の天領地として、栄枯盛衰の歴史ロマンを刻むのである。