時は16世紀、日本は戦国乱世、世界はいよいよ大航海時代へ突入する大きな過渡期。日本は「プラタレアス=銀の島」という名前で知られていました。
当時日本で産出される銀の量は、世界の銀流通量の1/3を占めるほどでした。
そしてその大半は石見銀山で採掘される銀だったのです。
江戸時代の初め、人口20万人を集め、世界最大の産出量を誇った幕府天領地石見銀山大森の町。当時天才と呼称され徳川家康からも賞賛された稀代の山師安原伝兵衛は『お山の繁盛おびただしく、私が召し使う者1000人余。全国から集まりたる者共20万人。谷には銀鉱脈が充満し、昼夜を問わずにぎやかなる様は京や堺と異なることなし』と書き記しています。
石見銀山大森の町は、銀山開発の前線基地。当時の戸数は2万6千余り、寺院100ヶ寺、家は家の上に重なり、軒は軒の下に連なり、大森の町は端から山の上まで軒下づたいに歩けたといわれます。
現在の大森町の町並みは、西暦1800年の大火の後、建替えられたもので建築後200年を経過していますが、当時の面影を余すところなく伝える町並みとなっています。西暦1800年といえば、石州瓦はすでに来待釉薬を使った赤瓦として産地形成が確立していました。
石見銀山大森の町並みは、典型的な赤瓦の景観。山陰の狭い谷あいに、長さ1kmに渡って、古い木造の民家が朽ちることなく、今でも暮らしと生産の空間としてしっかりと町の機能を果たしています。
石見銀山大森の町は、石州瓦が200年に渡って守り続けている町並みです。
昭和62年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された大森の町は、今年(2007年)6月28日世界遺産に登録されました。